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吉野 桜といえば、絶頂期の豊臣秀吉が
文禄3年(1594)、吉野山で花見の宴を開催したことでも有名です
秀吉は徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人を引き連れ訪れたようです。吉水神社に、一目千本という看板があるのですが、ここからの景色を見た秀吉は「絶景じゃ。絶景じゃ。」と子供のように喜んだそうです

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吉野の桜 豊臣秀吉 花見

豊臣秀吉のお花見というと、晩年の慶長3年3月15日(1598年4月20日)の醍醐の花見が有名ですが
醍醐の花見は1300人吉野の花見は5000人と規模から言っても吉野の花見はそれはそれはすごいものだったのでしょうね
秀吉が本陣を置いた吉水神社では、五日間宿泊し豪華な花見を催した時、この書院にて盛大なる歌の会・茶の会・能の会を開いて豪遊したそうです。徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将は吉野山に数寄を凝らした茶屋を建て、様々な扮装をするなどしてこれに参加したそうです。
また、豊臣秀吉は、千石を寄進し・・・
大阪より持参した千本の桜の苗木を植えたといいます。

吉野の桜 豊臣秀吉 花見ゆかりの地 吉水神社

もともと吉水院という格式の高い金峯山寺の僧坊であったが、明治の廃仏希釈により神社となったそうです。
吉野に潜行した後醍醐天皇の行宮所になったり、
義経や静御前一行が逃げ延びてきたり、
太閤秀吉の花見の本陣になったりと、数々の歴史を見てきた場所である。
義経潜居の間や、後醍醐天皇玉座の間などがあり、4月と11月には特別公開され
静御前の衣装、豊太閤金屏風なども見ることができます

吉水神社の山門を入ってすぐ右が、「一目千本」中千本が一望出来ます。
秀吉の花見の際、吉水神社が花見の本陣となり、秀吉やねねが宿泊しました。
境内の庭ではお茶会、お能の会、歌会なのが催され、この日のために、狩野派の有名な絵師が襖絵や障壁画を描き、建具も取り替えられたそうです
秀吉の花見に際し修理したという後醍醐天皇玉座をはじめ、吉水神社には、秀吉が数日滞在した豊太閤花見の本陣をはじめ、豊臣家ゆかりの品が展示されている。

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吉野の桜 豊臣秀吉 花見ゆかりの地 竹林院群芳園

吉野の花見の折に利休が手を加え、それを細川幽斎が改修した池泉回遊式の庭園が
竹林院群芳園にあります。竹林院群芳園は古くは西行法師、太閤秀吉、与謝野晶子をはじめ多くの文人墨客の宿で約1万坪の敷地内に大和三庭園の一つ群芳園を有してます。
大きな築山の手前に細長い池が配され、築山に上り、池の対岸側に下りるで
吉野山西側を借景としているそうです。

吉野の桜 豊臣秀吉 ゆかりの地 水分神社

水分神社は上千本に位置し、平安時代中期ごろから「子守明神」と呼ばれるようになっており、秀吉は吉野水分神社に男子誕生を祈願していたということで、秀頼を授かったといわれる。現在の社殿は慶長10年(1605年)に秀頼によって創建されたものだそうです

吉野の桜 豊臣秀吉 花見ゆかりのち 豊太閤花見塚

吉野山の花見というと、下千本から奥千本へ。尾根沿いに吉野山を登るのが一般的ですが、秀吉が花見をしたと伝えられる地は、観光車道沿いの豊太閤花見塚。如意輪寺近くの丘から谷を隔てた吉野山を見渡している場所です。豊太閤花見塚からの桜は、吉野全山を見渡すまさに万本の桜。花見の背景には、吉野の僧兵を懐柔するという隠された目的もあったのかもしれませんね

また、吉野山の桜が色とりどりなのには理由があります
吉野の花見の前年、吉野へ視察に出かけた秀吉は、山桜中心の桜の山に彩りを加えるために、数千本の枝垂桜を植樹したそうですよ。吉野山の桜には秀吉の功績も大きいですね

年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな(秀吉)

⇒秀吉のお花見あなたの体感してみませんか

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